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原爆の火と熱の下で ~少女たちの被爆体験記~


8月9日、この日は長崎市の平和公園で、毎年、長崎平和祈念式典が執り行われます。
そしてこの祈念式典では、被爆校である純心女子高等学校の生徒らが『千羽鶴』という祈念合唱曲を犠牲者に捧げます。同校は爆心地から約1.6kmのところに位置し、原爆投下により、207名の生徒と7名の教職員の尊い命を奪われ、校舎は全焼しました。
このような恐ろしい核兵器として利用された原子力は、あれから76年経った今、世界でも、この日本でも、まだまだ利用されています。

今回は、76年前に長崎で起こった事実を、少しでも多くの方に知っていただき、原子力のありかた、原爆の悲惨さ、平和とは何かを考える機会になればと思い、終戦記念日の今日、同校及び著者の奥様であり、著作権継承者の竹中誠子様にもご了解をいただいたうえで、当時の生徒らが遺した被爆体験記『新版 焼身/著者 高木俊朗』を一部内容を抜粋してご紹介します。

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昭和二十年八月九日。
この日も、朝は霧が深かった。午前七時ごろ、日ざしが強くなるにつれて、浦上川から港の岸にかけて残っていた霧が次第に晴れ、市街や工場がはっきりとその形をあらわしてきた。静かで、さわやかな朝であった。だが、すぐに暑くなった。長崎海洋気象台の記録によると、日中の風は 東南から西南に変わり、気温は午前十一時には二十九度八分にのぼった。典型的な真夏の一日となった。

寄宿生たちは二列縦隊を作って、大橋町の三菱長崎造船所第三部品工場に向かった。学校から 三百メートルの距離であった。工場の正門をはいるときには、号令をかけた。
「歩調とれ」生徒たちは緊張して歩調をとって、なかにはいった。それから、いつものように、生徒たちは受持ちの分工場へ行って仕事をはじめた。
ひとりだけ、持場に行けない生徒がいた。専攻科の池田輝子で、腹痛におそわれていた。深堀修道女が哀れに思って、「早引きしてよろしいから、帰って休みなさい」と、いたわった。池田輝子は、成績はよくなかったが、すなおで、責任感が強かった。深堀修道女がすすめても、帰らなかった。
「みんなが働いていますから」池田輝子は、腹痛をこらえて、自分の持場に歩いて行った。

四年生の深堀静香は、機械の調節をしていた。手伝ってくれた二年生の山下八重に、たずねた。
「いま、何時ね」
山下は腕時計を見て、答えた。
「十一時十五分前」
「ああ、おなかがすいたね。きょうは綾子先生 (深堀修道女)に、梅ぼしば、たくさんもらったけん、あげるね。」
山下八重はうれしそうにニコニコして「うん」と大きくうなずいた。

深堀静香が機械の調節を終わって、運転しようとしたとき、突然、ピカーッと電気のような光がひらめいて、目がくらんだ。同時に、ものすごい音がひびいた。深堀静香は、隣の鋳物工場が、また爆発したと思った。急いで裏口に逃げようとすると、いろんな物が飛んできて、からだにぶつかった。深堀静香は床に身を伏せた。ばらばらと何かが落ちてくる。
「あいたァ」目をあけると、まばゆい電光のような光がいっぱいになっていて、何も見えない。あわてて、機械の下に頭をつっこんだ。激しい物音と、すさまじい振動がつづいている。重い物が、からだの上にどかどかと落ちた。近いところで、「かあちゃーん、かあちゃーん」 と、叫ぶ声がしたが、それが遠くなったと思ううちに、気を失った。

次回に続く―――――

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