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控訴審第1回口頭弁論期日が開かれました(福島原発事故被害救済九州訴訟)

2021年6月24日に、福岡高等裁判所にて、第1回口頭弁論期日が開かれました。
くしくも第1審判決が言い渡されたのが、1年前の6月24日。原告、支援者、弁護団も1年前の判決を覆すべく、気持ちを新たに口頭弁論に臨みました。

口頭弁論では、原告団長金本さんのご子息暁さんが原発事故に翻弄された子供時代を語ってくださいました。また、生業訴訟の弁護団馬奈木厳太郎先生から全国での裁判の状況やこの九州訴訟の意味について弁論していただきました。

口頭弁論期日後の報告集会では、関西訴訟原告団長の森松さん、九州訴訟に原告として参加されることになった木村さんらから連帯メッセージをいただきました。

九州訴訟は、福島原発から最も離れた場所での訴訟です。九州で国の責任を認めさせること、被害実態に見合った賠償を勝ち取ることが、全国の避難者が真に救済されるために不可欠であることを再認識した口頭弁論期日になったと思います。

*報告集会の様子をyoutubeからご覧になれます。森松さんを取り上げたドキュメンタリーも上映しておりますので、
ぜひご覧ください!
YOUTUBEライブ配信QRコード
URL:https://youtu.be/55wTrzqsK-s

原告金本暁さんの意見陳述をご紹介いたします。

弁護士 坂口裕亮

【原告:金本暁さん意見陳述】

1.はじめに

私は宮城県に生まれ、生後3ヶ月のころから福島県いわき市で育ちました。福島第一原発事故の後に一家で福岡県久留米市に避難し、今は佐賀県鳥栖市で生活しながら福岡市内の大学に通っています。
今までの人生の半分程を過ごした福島は、私にとってかけがえのない故郷であり、そこでの思い出が今の私を支えています。

2.福島第一原発事故

2011年3月11日、東日本大震災に続き、福島第一原発で爆発事故が起こりました。私の住んでいた地域では幸い津波の被害はありませんでしたが、原発事故は当時中学一年生だった私にとっても「核爆弾」を連想させるような漠然とした恐怖を感じるものでした。父が言った、「せめて苦しまないで死ねるよう祈りなさい」という言葉は、今思い返すと、原発事故がその当時どれほど深刻で身近に迫りくる恐怖であったかを表していたと思います。

3.福島からの避難と避難生活

私の両親は、「福島に留まることはできない」という判断をしました。情報が錯綜する中、安全か危険かを確定できない不安定さと、何かあってからでは遅すぎるという切迫した危険を踏まえての決断でした。当時の私の「勝手な予定」では、一度様子見のために福島を離れて、状況が落ち着いたら一週間程で帰ってくる、というシナリオがこの時の「避難」のすべてでした。吹奏楽部の部員だったので、7月の吹奏楽大会に向けて曲を選び練習を始めるはずでした。進学したい高校もすでに決まっていました。同じ高校に行こうと友人や先輩と約束もしていました。これらの「勝手な予定」は、具体的で日常的で、必ず起こるはずだと信じることができる希望でした。

いくつかの場所を中継して、最終的な避難の目的地は福岡まで離れましたが、福岡への移動も、私の中では「予定」を実現させる前の一時的なものだという思いでした。しかし、両親はついに福岡に留まることを決心しました。今思えば両親の決断の背景を理解することはできますが、当時の私にとっては受け入れがたい衝撃以外の何ものでもありませんでした。両親の決断に、当時高校2年生だった兄は激しく反発し、一人でも福島に帰ると言いました。妹はその状況を見て、ただ泣いていました。私と私の兄弟は、それぞれ当たり前に思い描いていた日常を失いました。

転校先の久留米市の中学校では友達を作ることができませんでした。小学校から続けていた吹奏楽部にもとても入部する気になれませんでした。小学校からの仲間と、中学校での新しい仲間を突然、しかも不条理な理由で失った喪失感が大きすぎて、新しい場所で一からやり直す気持ちにはなれませんでした。久留米での学校生活は、家と学校を幾度となく往復するだけという無気力なものになってしまいました。自分が知らぬ間に失っていた当たり前の日常生活を普通に送っている人たちを見て、生意気ながら「この人たちと同じではない」という風に思い、やさぐれていました。

久留米市に避難してから約一年後、一度福島に帰る機会がありました。久しぶりに友達に会うことができて嬉しかった半面、福島の人々が何事もなかったように生活しているのを見て、正直少し混乱しました。原発事故の危険から逃れて福岡に避難したはずなのに、福島は到底「避難してきた場所」には見えませんでした。すでに安全でこれからも安全だ、と言う人もいれば、未だ危険で今後も不確実だ、という人もいました。福島に帰ることで、頭の中の認識と目の前の現実との矛盾をはっきりと自覚せざるをえず、自分は福島にいてはいけないのではないかとさえ思わされました。

私がかつて通っていた中学校の吹奏楽部は、私が避難した後、東北大会にまで駒を進めるほど活躍していました。「同じ高校に行こう」と約束していた友人や先輩は、約束通りの高校に入学しました。私は、高校入学と同時に佐賀県鳥栖市に引っ越し、吹奏楽部にも入部しましたが、半年も続きませんでした。仲間と環境を失ったダメージは想像以上に大きく、その穴を埋める努力はしましたが、避難から数年たった後でもそうすることはできませんでした。私には、日常を取り戻す手段も力もないことに気づきました。

4.避難者たちとの出会い

大学を卒業し、大学院に入学する頃から、私が経験した原発事故による避難や、原発そのものについて深く考えるようになりました。震災当時の出来事や避難について思い返すことは、しばしば苦痛を伴う作業でしたが、過去の経験を振り返り、発信していく中で、私と同様に福島から避難した方々と出会うことができました。国内で避難した方、国外に移住した方、様々な理由で避難を決意し、私が経験しなかった被害を経験した方の話を聞く時、原発事故の被害の大きさと幅の広さを思い知らされます。心身に不調をきたし、家族や友人との関係が元に戻せないほど悪化し、住み慣れた故郷を不本意な形で手放さざるを得なかった方々の話は、同じ避難を経験した私ですら知らないことが多いのです。

しかし、私たち避難者に共通している事実もあります。私たち避難者が経験した様々な被害は、私たち自身が望んで受け入れたことではないということです。私たちの被害に対する責任、もしくは原因の所在が、原発そのものや、それを運営・促進していた電力会社と国にあるという事実が認められない現実に、悩み苦しむ人が未だに存在します。もし、私たち一家の避難が無意味だったというのであれば、私が吹奏楽部で活躍できなかったことも、憧れていた高校に入れなかったことも、気心知れた友人たちと青春を謳歌できなかったことも、それは私たち自身が、或いは避難を決断した私の両親が悪かったのだと宣告されているのと同義です。

5.おわりに

間違いなく、原発事故が無ければ、私たちは避難していませんでした。当たり前の日常を失ったり、将来の夢を壊されたりはしなかったはずです。通いなれた学校で友人と笑ったり、目標のため勉学に励んだりして平穏に生活していたはずです。月日が経てば、大学入学や就職のために、自分の意志によって、福島に留まるか、福島を出るか、という自由な選択の機会があったはずです。原発事故が無ければ、私たちは何の被害も受けなかったはずです。

しかし、原発事故が起きたことと、その被害者が存在することは偽ることのできない事実であり、変えることのできない現実です。この問題を解決するための第一歩として、まずは責任の所在を明確にすることが必要です。
裁判官の皆さん。国や東京電力の代理人の皆さん。私たちに「お前が悪かったのだ」と言わないでください。避難という苦渋の判断をしたことと、それによって受けた被害の責任が避難者自身には無いという宣言を聞くだけで、それだけで私たちの心は救われるはずです。

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